勘とオンガク・ケンチク・ランドスケープ。

 続いて3コマ目。あまり講義とは関係ないけど、こんなことを考えておりました。

 ケンチクとかLSに対して、インスピレーションとか、センスとか、勘って奴を僕は信じてない。信じないというか、反抗とか恐れみたいなものがある。音楽をやってる時はかなり勘に忠実で、やりたいようにやっているけれど、プランニングを組んでいる時は勘は極力排除して、科学的・論理的根拠を用意するようにしている。
 勘で動いてもいいんだけど、人にも理解してもらえなければ独りよがりで、それって結局勘が冴えてない。安藤忠雄だからってだけで勘を信じるのも違うだろう。そんなわけで、他人にも理解してもらえる勘っていうのは、それなりに論理性を持つべきだと思うわけです。何も昼間のプランニングだって、全く勘をムシしてる訳じゃない。しかし勘に頼って失敗するよりは勘を無視して遠回りでも分析するべきだ。

 今回はこれが音楽の話に及ぶ。僕のセンスはさておいといて、センスが無くたってある程度音楽は理解できると思う。音量の指定とか、どのパートと一緒で何処がメロディーとか、楽語の指示によって、ある程度求められている音の雰囲気は読み取れる。また、これは鶴亀算とか、これは代入法を使うとかって数学の問題みたく、音楽も実はパターンとかあって、大体こんな音を出せばいいってことも、読み取ったことからなんとなくわかると思う。でもそれじゃあまりに機械的なので、そこに作曲者の人生とか、作曲時の情景とか、元々の旋律から受ける印象とかから音に対するイメージを作っていく。表現力はともかく、これは読解力でしょう。国語の教科書を読むように、音楽のスコアを読むことってこういうことじゃないだろうか。とか偉そうなこと言って、プロじゃないから自信は無いけど。

 論理性を求めつつ勘に頼るオンガクと、勘を極力排除して論理的根拠にすがるLS、芸術学校でのケンチクはもしかすると、その間に立てるのかもしれないと思った。